今何してる?

たらこ三姉妹の交換日記です。

22°から、たらみ

台風2号の影響で雨続きだったが、今朝は風もなく、青空を雲がゆらりと流れている。

先日のことを、少し。

 

 

ここは沖縄。オリオン通り。目の前にある家の改修が、当分の仕事だよ。と、師匠は言った。

(いつぐらい前だったかは覚えていないけど、「弟子です」と宣言した。ニコニコしながら暫し言葉を失っていたが、後日名刺を作ってくれたのだ。実際に「師匠!」とは、なんだか照れくさくていったことはないけど、ここでは師匠と書こうと思う。)

トタン屋根には穴があいている。中から見上げると、青空が眩しい。

このままでいいんじゃないですかね、家の中から青空が見れるなんて、なんとも素敵じゃないか。なんてことを、オーナーは思わなかったようです。

元々は居酒屋だったようで、和式のトイレと、剥がした壁の中から出てきた「冷房のある店」と書かれた手書きの看板が、建物の歴史を証明しているかのようだった。

ここの持ち主は、老人ホームにいるらしい。「おばあちゃん、認知症でね。」と、オーナーが呟くように言った。

開店は夕方5時頃。客は6時ごろからちらちらやってくる。9時頃になると別の店から流れてきた客も混じりだし、ピークの頃合いである。大抵は12時頃には店じまいを始める。おばちゃん一人で仕込みからなにから切り盛りし、その朗らかな気質とオリオン通り沿いという好立地も相まって随分と繁盛した。沖縄そばとちゃんぷるーが定番メニューで、夜飯や、二件目の〆にと営業中は座る暇も無いほど忙しかった。なにより、冷房入りである。当時冷房は珍しく、蒸し暑い夏の熱帯夜に、涼しい場所に人が集うのは当然のことだろう。

などと適当に想像してみるが、実際どんなだったのかはわからない。「手書きの看板」と、ホワイトボードにかかれた「「沖縄そば550円」という文字」と、「丘の上にある老人ホームにいるであろう認知症のおばあちゃん」、そしてこの建物だけが手がかりである。

その建物は、改修によって、昼間は子供食堂・夜は居酒屋として生まれ変わる。

屋根の穴をふさぐ代わりに、それまでの何度かの改修によって塞がれていた窓とドアを開け放つ。剥がれた壁には漆喰を、和室には畳を。

 

しかし、この建物が子供食堂に生まれ変わることはなかった。

屋根のトタンを張り替えたところで、作業は止まり、そこから進むことはなく人の手にわたっていった。

 

今、我らは別の屋根の上にいる。別に屋根専門というわけではない。たまたま、また、屋根だということだ。

首里劇場というところだ。雨漏りがするので、補修している。屋根は白く、眩しい。

遠くに見える、海もまた、眩しい。

明日も、晴れるだろうか。

 

 

君は「浮き沈みある方がいい」と歌うけれど。(雑記) -たら子

 ドタバタとしていた大学2年の冬も終わって春休みになった。病気になったのは本当に予想外のことだったから、とりあえず春休みまで突っ走ろう。全てはそこから。と思った冬だった。

 去年の春とは打って変わって身動きが取れずじっとしている。冬眠中の熊みたいにのそのそと起きてご飯を食べて編み物をしたりずっとできずにいた家の掃除をしたり。調子がいい時は散歩したりして、お風呂に入って寝る。でもあまり眠れなくて困る。生活は一定だけど気持ちの波は大きいみたいだ。浮いたり沈んだりする日々。お守りみたいな、お手本みたいなことばを身の回りにたくさん置いてしまう。それは音楽だったり、誰かの呟きだったり、日記だったりする。写真の時もある。朝起きて(最近は眠れない夜が続いて起きると昼なことが多い。)カーテンを開けてそれらをそっと開いて目を閉じる。そういうものに助けられている。

 日々めまぐるしく時に辛いほど回転する頭の中を、鬱々とコップに溜まっていく思考を少し書いてみようと思う。こうして書いた自分のことばがお守りになるように。

 家の中で1番好きなところはどこだろう、と考える。今住んでいる家は引っ越してからそんなに日付は経っていないけれど案外思い入れがある。引っ越し直後からやけに来客が多い家だった。その節はどうもありがとう。みんなのおかげでここでの生活がスタートできた。

 年々長風呂が過ぎるようになっている。昔から温泉やら銭湯の類は好きだった。でも家の風呂はめんどくさくて嫌い。入ってしまえば何ともないのだが入ってシャンプーをしてトリートメントをして体を洗って風呂に浸かって出てドライヤーをして……この流れを終えることがただひたすらめんどくさい。だからシャワーしかない家が定番だった島での暮らしは最高だった。暑い外から汗ダラダラで帰ってきてチャッとシャワーを浴びてクーラーの冷気を浴びる。本当に最高だったな。

 そんなわたしも内地に来て久々に日常的な寒さを経験するようになった。この寒さに晒された体はシャワーを浴びるだけでは温まらない。頻繁に湯船に浸かるようになった。温度は高すぎるとすぐのぼせてしまって楽しくないから中間くらい。何か、本が読めるものや音楽が聴けるものを持ち込んで入る。気づくと1時間以上経っていることもある。部屋で読むよりも外で読むよりも、お風呂で読む本が1番楽しい。風呂の快適度をどんどん上げていきたい。みんなのおすすめ風呂グッズはありますか?

 「適度な運動があればいいですねえ」

月一の通院で言われる。そりゃそうだろうな。と思う。どんな人にも運動は大事。ていうかもっと運動が記録とかうまさを超えてカジュアルに楽しめるといいよね!とかぼんやり考えながら聴く。歩くのが好きだからまあ足りない日もあるだろうけど大丈夫だと思います。と胸を張って言ってみたら先生が微笑んだ。そうしているうちに春休みが来る。何もないと外に出ないまま1日を終えることになる。すると歩数計の数がぐんぐん減っていく。(今見返してみたら何と8歩の日があった。一日中どうやって生きたんだ。)

だから散歩ばかりしている。無理矢理にでも外に出る。フラフラと家の周りを歩いてる時もあるし、それに飽きると気づいたら電車に乗ってることもある。移動手段としての「歩く」ではない歩くということ。いろんなことが見えてくるんだ。

 


いつも通る川沿いの道はなぜか強烈に野沢菜漬けの匂いがする。畑と家と川しかない道なのに。なぜだろう。


この前までキュッと口を結んでいた桜の蕾が膨らみだした。今年もたくさん咲くだろうか。


二日に一回くらい会うカートにわんこを乗せて散歩するおばあちゃん。今日も元気そう。


狙っていた貸し畑が満員になっていた。きっとみんな今の時期だからこその新たな娯楽として始めたんだなあ。わたしも早く借りればよかった。


月並みだけど今日も元気でよかったと思うのだ。こういうちょっとしたことに気づいて何かを感じられる健康なからだ。息をしているということ。

10年。

随分と遠くまできてしまった。旅をして旅をして。もうわたしの帰る場所では無くなってしまった場所。一度仕方なく帰った時、胸を高鳴らせて降りたあの駅はもうわたしの知るそこではなかった。妙にぎくしゃくとしていておもちゃのように見えた。眠れない夜、ふいにあのままあそこにいたらどんな未来だったのだろうと考える。どうやって生きていただろう。

今まで不思議だったのは、どこに行っても匂いを嗅ぎ分けるように磁石が引きつけられるように同じ道を辿ってきた人と会ってきたということ。そして言葉にしなくても何かを共有してきたということ。そんな人たちに助けられてきた10年だった。でも原発はまだこの国にいるつもりらしい。嘘に嘘を重ねながら。

この先、また私たちのように帰る場所を失う人たちがいないことを願う。

3.11

 お月様。お月様が好きだ。最近はずっと太陽のネックレスを下げているけれど、ぼーっとみていたいのはお月様。

眠れない夜が続く。どうしても眠れない夜、だんだんと開けてく夜空を見ようとカーテンを引くといつもは月なんて見えないはずなのに、大きな満月が見えた。

 新月の時は心が揺れる。だけど眠ってる間とお風呂に入っている間はとても落ち着いていてずっとそうしたいと思う。でもなかなかそうはいかない。一度寝たらどんなにその時間を引き伸ばそうとしてもやはり起きてしまうし長風呂していると人より早く具合が悪くなってしまう。心が体を動かしているように見えて実は心(頭)はわたしという身体の一つの機能であるということ。その二つは密接に繋がっているということ。そんな当たり前のことに気づく。

 

 薄い爪のような月が空に浮かんだ次の日。蕾ばかりだったいつもの道で花が咲きだしたのを見た。

 「アイドルのファンなんです。」

そういうと必ず驚かれる。えっそういうの好きなんですね。と目をまん丸にして驚かれる。えっ、私ってそんなふうに見えてたんですね。わたしも口をまん丸にして驚く。もう長らくわたしはアイドルが好きだ。小さい頃はテレビっ子だったけれどNHKか、民放でもニュース番組以外は怖くて見れなかったわたしがアイドルを好きになったのはいつだっただろうか。いつもどんな時も助けられてきた。わたしの日常とは全く違う空気の中に生きる彼女、彼らに。(ただ彼女/彼らが置かれている状況に関しては色々言いたいことがあるのでそれはまた別の機会に。)

 その彼は4年前、病気をしたという。脳の腫瘍。そしてその病気による後遺症が怪我を引き起こし、一時は仕事を諦めかけた。それでもアイドルとして戻ってくることを決めた。それが病気を経験した自分の経験値を活かし、届けることができる道だと思った。と。

 自分自身、10月に倒れて病気がわかってからやけにフラットだった。落ち込むこともエンジンがかかることもなく、しんどくもない。でもどこか遠くに影が見える。それがひたひたと近づいているような。そんな怖さがあった。春休みになって一人でぼんやりと考える時間が増えて、その「影」はわたしの杞憂ではなくしっかりと存在していたことを知る。お医者さんに「できない」と断言されることはないけれど昔より幾分か多い配慮と労力を使わないとできないことが増えた。病気だからできないのか、自分の力不足が原因でできないのかふとわからなくなってぼうっとすることが増えた。

元気なの、元気だけど。

だけどね。

そうして言葉にならず喉に詰まるものたち。向き合うことを先延ばしにしていたものたち。

 彼のことを知ってから病気について語ったインタビューや言葉を読んだり聞いたりした。その柔らかな目線の先に葛藤とゆらぎを見た。発病から時が経ち、一見向き合う術を見つけて日々を暮らしているように見えるひともいつまでも悩みは尽きないことを知った。

少しずつだけど、わたしも感情を持って自分に向き合ってみようと思う。できるところからゆっくりと。

 

Thinking time の表明。

とつぜんですが問題です。

 

「あなたはブレーキが壊れて暴走する電車の運転手です。

前を見ると5人の作業員が線路の修復作業をしています。

このまま進むと5人は確実に死ぬ。

で。あなたはあることに気づきます。

右にそれる分岐点があるのです。

右にハンドルを切ると、その先には1人の作業員が作業をしている。

そのまま進めば5人の命・ハンドルを右に切れば1人の命が奪われます。

さて、あなたならどーしますか?!」

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これは高校の時に現代社会の授業で出たものだ。

当時の私は即答、「右に切る」。

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それを急に思い出した。

Choose Life Project観て思い出した。

https://youtu.be/bySaATlshK4

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3/1~6、

具志堅隆松さんという方が、

沖縄県庁前でハンストをした。

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具志堅さんは、「ガマフヤー」の代表。

ガマフヤーというのは、ガマ(自然壕)を掘る人という意味だ。

真昼も暗いガマの中で土を掘り、その中に入っている遺骨を探し、

見つけた遺骨をDNA鑑定に出し、遺族の元に届けるという一連の

ボランティア活動をされて39年という。

遺骨というのは、沖縄戦のときに亡くなられた方々の遺骨のことだ。

76年前に終わったとされている沖縄戦だが、

自分の家族の骨が見つかっていない人がいる。

骨壷には、石しか入っていない人がいる。

骨が見つからないから、その人がいた場所の石。

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今でも毎年、百体以上の遺骨が見つかっている、

と6年前におっしゃっていた。

 

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その具志堅さんが、6日間

食事を絶って抗議した。

なにに?

遺骨が混じっている可能性の高い土砂が

「建材」として使われようとしていることに対して。

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沖縄戦で、本島南部は特に激戦地だった。

その激戦地だった南部、

糸満市からも工事のために大量の土砂を採取するという話。

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その土はどこにいく?

なんの工事に使われる?

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辺野古の海に行く。

新しい基地をつくるために使われる。

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電車が暴走しているからって

1人の命より、5人の命が大事だって

なんで言ってしまったんだろう。

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それは

かつての琉球、今の沖縄である地から搾取し、

いざとなったら日本人だと一緒くたにし、

最終的には、ヤマトを守るための「捨て石」にし、

住民を壕の外に出して、

たくさん、

たくさんの犠牲者を出して、

この今日だって犠牲を強いている

日本、ヤマトの姿勢そのものじゃないか。

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日本の1%にも満たない面積の地には、

いまだ

70%の「米軍基地」がある。

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あーまたあいつ沖縄のこと言ってる

忘れらないんだね

かわいそうだよね

ひどいよね

そういう声が聞こえそうで、

わたしはまた一人

薄い眉毛の間にしわを寄せて考えていた。

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2021年1月末、

辺野古陸上自衛隊が常駐することが

2015年に日米の極秘で決まっていたらしい

と聞いた。

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つまり

陸上自衛隊海兵隊が一緒に訓練するらしい。

なにを?

災害の訓練?

自衛隊なら私の住む県にもいたはず。

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基地ってどんなもの?

なんのためにあるの?

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わたしは、

これ以上の基地を沖縄につくるのががいやだ。

戦争で亡くなった方の遺骨が、次の戦争のための基地の土台になるなんていやだ。

たとえ、遺骨が土砂に混ざっていなかったとしても、その地はどういう地なの。

たった76年前に、どんなことが起こった地なの。

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わたしはおかしいと思っている。

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だけどどんなふうに動けばいいかわからなかった。

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そんなとき、友達に誘われてこんなことに関わった。

https://peraichi.com/landing_pages/view/wakamonostatement

声明文。

ステートメント

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ひとり頭の中で考えていても、

自分の外に出さなければ

それは沈黙にカウントされるだろう。

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zoom会議でもそう。

画面上だと

考えている沈黙なのか、

考えてないから沈黙なのか

わからない。

「thinking timeだからね!」

って言わないとね。

.

だからわたしも、

わたしが思っていることを表明します。

.

あなたがどう考えるかはわからない。

でも

私はこう考えて、

どんな形でか動いていきたい

と思う。

.

ここまで読んでくれた数少ない人の中のあなた。

ありがとう。

私と考えが違っても、同じでも

一緒に考える友だちになってくれませんか。

晴れたら、み

今、10万円もらったらどうするだろうか

 

今、自分はおそらく貧乏である。

金がないということだ。

もらう金額よりも、払う金額のほうが多いということだ。

生きるのには、なぜか金がいるらしい。

年金、県民税、市民税、食費、バイクの維持費、などなど

でも、それについてどうこういうつもりはない。

今あるのは、金がないという事実と、特に困っていないというリアルだ。

どうして困っていないんだろう。

自分が困るのはどんな時だろう。

 

きっと、たくさんある。

でも、何とかなると思う。

 

何とかなると思えない時こそ、困ったときだと思う。

そんな時は、周りに助けを求める。皆を巻き込む。

だから、その時のために10万円を使おうと思う。

 

今日、久しぶりに晴れて、蒲団を干せて、とても幸せだ。

これからも沢山幸せなことがあると思う。

幸せで自分ができているのだから、皆そんなに心配しないでね。

 

 

身体と思考とか

気付いたらもう師走である。

なんだかブログを書こうと思って書いたら消したりしていたらこんな時期になってしまった。前に自分が記事を書いたのは7月の終わり。ずいぶんと寒くなったものである。こちらは毎日吹雪いています。

ブログを書いては消して…を繰り返していたのはまだ言語化できていない大事件があったから。でもそれを言葉にせずに当たり障りのないことを書いて次にバトンを回すのもなんだか嫌だったから、

なんか書いてみると大事件というほどでもない気もしてくるけれど、実は秋の終わりから冬の初めにちょっくら入院していた。なんとなくこの半年間体調が悪かったのが杞憂でも心理的なものでもなく、病気だったということが判明した。これからこの病気と一生付き合っていくことになるということも同時にわかった。ちょっとした自己免疫破壊が体の中で起こってとあるホルモンが出なくなり血中のブドウ糖を体内に取り込まなくなる病気、1型糖尿病というやつである。そのため自分で作れなくなったインスリンを自分で注入する作業が必要となる。

不思議がられるがあまり悲観的ではない。というのも発症していることがわかるまでの半年があまりにも辛すぎた。私からしたらその半年間の方が先の見えない暗闇にいた。毎日誰か、誰でもいいから私を助けてくれ。と心のどこかで祈っていた。じわじわとだるさから始まり口渇感は日に日にひどくなり、時には気持ち悪さで起き上がれず、しまいには痩せ細り階段さえも登れなかった。

しかし、適切な処置をしている今、体は軽い。話したいこと、やりたいことがたくさんある。何を悲しむ必要があるのかわからない。(しかしあまり飛ばしすぎると疲労することもわかっているのでブレーキをかけつつやっている、しかし心はやる気満々である)もちろんやることは増えた。毎月通院もしている。それでもこうやっていられるのは周りが私の心配を減らすためにサポートしてくれているということもあるかもしれない。本当に感謝である。

 最近の自分を考えると「体のために生きている」って感じである。こうやって一つ身体に気にしざるを得ないものを持つと「どんなものを食べようか」とか「手足がよく冷えるから何か防寒できるものを探してみようか」とか。「少し太ったかなあ」とか。今までは自分の頭の中で蠢くことが全てで、そういう思考とか理論展開のために生きていた。(もちろん今でも頭の中はいつでもグルグルしている)というかそういうことと、身体に起こることを明確にわけていた。違う物だと。だけど、思考は私という体の中の一つの動きなのかもしれない。と思う。お腹がなったり朝起きてみたら何故か左足が痛くなったりするのと同じ。自分がいかに今まで人生の中で思考とか心の動きとその他をよりわけて、身体を軽視していたか。ハッと気付かされた。互いに作用しあっているんだ。そりゃそう。お腹痛くてまじ無理。という時にパーティ行く気にはならない。意味もわからず体調が悪かった半年間、私はやけに悲観的でやる気もなく、それをどうにか「やらなくてはならない」という意地で引っ張っていた感じだった。(なので最初は精神を病んだのかと思い、精神科に受診しようと思っていた)

こういう考えに至ったのは今授業でニーチェを読んでいるというのもあるかもしれない。哲学ってのはなかなか考えることがたくさんあって面白い。もっと思考ばかりでなく身体性が重視された世界になったらどうなるだろう。どんな世界ができるかな。身体性という視点が加わった世界はきっとでこぼこしてもっとめんどくさくて、もっと意識を傾けないといけない社会になるんじゃないかな。結構面白そう。病気を通してこういう思考に至ったわけだが、この問いの範疇にいるのは何も病気を持った人だけじゃない。みんな大なり小なりこういうことがあると思うわけで。

社会に"実体"を持たせるということ。学びを研究室とか机の上だけで終わらせないということ。そこにいる人にフォーカスを向けること。そういうことがもっと必要なのかもしれない。

 

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このところ新聞を読んでいない。

まあ、そもそも毎日欠かさず読むようなタイプではない。

それとラジオもあまり聞いていない。

ああ、これも、元々自分からつけることはなかったものだ。

で、FBとかTwitterとかも開く回数が減った。

おお、これはけっこう変化。

(テレビについては昔から置物)

 

自分の仕事場である所、兼住まいと

物理的距離の遠い場所との関係性とは

前述のような媒体で細々と繋がっていたようで、

それとの関わりが切れた途端、

「菅政権発足」

とか

日本学術会議

とか、

なんか別世界になってしまう。

あれ〜、

飛行機でたった50分で行ける場所のこと、

なんだよなあ。

同じ2020年10月9日金曜日を

ほんとうに生きているの、には間違いないはずなのになあ。

 

ってなる。

 

そもそも最初に書いたマスメディア、SNS離れの原因は

仕事のしすぎ。

 

困ったもの。

 

文字や映像で見る世界と

私が寝たり起きたり食べたりする世界との

バランス。

どっちかに集中すると、

もう片方が空っぽ。

 

どうすりゃあいいんでしょう。

 

とかく仕事はほどほどがいいです。

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中秋の名月。畳に溢れる光。

 

 

 

口元を隠すたらみ

やっぱり、生活はしないといけない。

皆がマスクをしていることに、違和感はもうない。

今は顔面が半分しかないのがスタンダードなのだ。

公共交通機関はマスク無しには利用できないし、よく行くお弁当屋は店の入り口に「マスク着用!してない方、入店お断り!」と張り紙。

顔が半分しか見えぬ。

違和感はないけど結構変だと思う。

スマホが普及されだした頃に感じた「変」と同じだ。

 

ある日気付いたらスマートフォンが販売されていた。

そこから瞬く間に老若男女誰もが当たり前にカバンやポケットからスマホを取り出し、眺め、なぜ回す。もはや今更「スマホのない世界」などなく、最近生まれた人々は、スマホのない世界など太古の昔であって、どんな暮らし方をしていたかなど想像もつかないだろう。知らんけど。

 

マスクに話を戻すと、今はドンキやコンビニ、百均、その辺にあるスーパーなどどこにでもある(しかも余ってる)存在だが、ちょっと前までどこにもなかった。

マスク及び消毒液の消滅期である。

どこにもなかった。本当に、どこにもなかった。

町に置かれた除菌用エタノールは盗まれ、消毒用にとアルコール度数の高い酒が開発され、手芸店にはマスク用のガーゼとゴム紐を求めて長蛇の列ができた。

 

今は、そんな時がまるでなかったかのように、マスクはどこにでもあるし、どの店に入っても入口に消毒液が置いてある。

 

つまり何が言いたいのかというと、よくわからないのだ。

 

最近、総理大臣が辞任した。最近、大きな台風ができて沖縄に襲い掛かっている。最近、私はやりたいことをみつけた。最近、なだいなだの書いた「TN君の伝記」を手渡された。最近、志村けんが死んだ。家には小さな猫がやってきて、高知県まで旅したバイクは倒れている。

 

世界はいつのまにか変わっている。毎日毎秒変わっているはずなのに、その変化に気付かないから変わったのだと思うんだろうか。自分は変わっているのだろうか。

 

「変わらないね」と人にいわれたら、「いや、少しは変わってる」と思う。

「変わったね」といわれたら、「何も変わってないよ」と思う。

 

用は世の中が変わること。世の中が変わらにゃならん。世の中が変わるにゃ、人が変わらにゃならん。人が変わるにゃ、精神が変わらにゃならん。

 

と、彼はいっていた。