今何してる?

たらこ三姉妹の交換日記です。

身体と思考とか

気付いたらもう師走である。

なんだかブログを書こうと思って書いたら消したりしていたらこんな時期になってしまった。前に自分が記事を書いたのは7月の終わり。ずいぶんと寒くなったものである。こちらは毎日吹雪いています。

ブログを書いては消して…を繰り返していたのはまだ言語化できていない大事件があったから。でもそれを言葉にせずに当たり障りのないことを書いて次にバトンを回すのもなんだか嫌だったから、

なんか書いてみると大事件というほどでもない気もしてくるけれど、実は秋の終わりから冬の初めにちょっくら入院していた。なんとなくこの半年間体調が悪かったのが杞憂でも心理的なものでもなく、病気だったということが判明した。これからこの病気と一生付き合っていくことになるということも同時にわかった。ちょっとした自己免疫破壊が体の中で起こってとあるホルモンが出なくなり血中のブドウ糖を体内に取り込まなくなる病気、1型糖尿病というやつである。そのため自分で作れなくなったインスリンを自分で注入する作業が必要となる。

不思議がられるがあまり悲観的ではない。というのも発症していることがわかるまでの半年があまりにも辛すぎた。私からしたらその半年間の方が先の見えない暗闇にいた。毎日誰か、誰でもいいから私を助けてくれ。と心のどこかで祈っていた。じわじわとだるさから始まり口渇感は日に日にひどくなり、時には気持ち悪さで起き上がれず、しまいには痩せ細り階段さえも登れなかった。

しかし、適切な処置をしている今、体は軽い。話したいこと、やりたいことがたくさんある。何を悲しむ必要があるのかわからない。(しかしあまり飛ばしすぎると疲労することもわかっているのでブレーキをかけつつやっている、しかし心はやる気満々である)もちろんやることは増えた。毎月通院もしている。それでもこうやっていられるのは周りが私の心配を減らすためにサポートしてくれているということもあるかもしれない。本当に感謝である。

 最近の自分を考えると「体のために生きている」って感じである。こうやって一つ身体に気にしざるを得ないものを持つと「どんなものを食べようか」とか「手足がよく冷えるから何か防寒できるものを探してみようか」とか。「少し太ったかなあ」とか。今までは自分の頭の中で蠢くことが全てで、そういう思考とか理論展開のために生きていた。(もちろん今でも頭の中はいつでもグルグルしている)というかそういうことと、身体に起こることを明確にわけていた。違う物だと。だけど、思考は私という体の中の一つの動きなのかもしれない。と思う。お腹がなったり朝起きてみたら何故か左足が痛くなったりするのと同じ。自分がいかに今まで人生の中で思考とか心の動きとその他をよりわけて、身体を軽視していたか。ハッと気付かされた。互いに作用しあっているんだ。そりゃそう。お腹痛くてまじ無理。という時にパーティ行く気にはならない。意味もわからず体調が悪かった半年間、私はやけに悲観的でやる気もなく、それをどうにか「やらなくてはならない」という意地で引っ張っていた感じだった。(なので最初は精神を病んだのかと思い、精神科に受診しようと思っていた)

こういう考えに至ったのは今授業でニーチェを読んでいるというのもあるかもしれない。哲学ってのはなかなか考えることがたくさんあって面白い。もっと思考ばかりでなく身体性が重視された世界になったらどうなるだろう。どんな世界ができるかな。身体性という視点が加わった世界はきっとでこぼこしてもっとめんどくさくて、もっと意識を傾けないといけない社会になるんじゃないかな。結構面白そう。病気を通してこういう思考に至ったわけだが、この問いの範疇にいるのは何も病気を持った人だけじゃない。みんな大なり小なりこういうことがあると思うわけで。

社会に"実体"を持たせるということ。学びを研究室とか机の上だけで終わらせないということ。そこにいる人にフォーカスを向けること。そういうことがもっと必要なのかもしれない。

 

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