今何してる?

たらこ三姉妹の交換日記です。

最近イチオシ本。

たらよです。

おはようございます。

今月はじめに誕生日を迎えまして、

23歳となりました。

しばらく、たらみさんと同じです。

生年月日順にすると、私はふたりの真ん中にあって、

歳は、振り子のように、どちらかにくっついたり離れたり。

 

なんだか、この2ヶ月半ほど

自分が自分じゃないような気がして過ごしています。

いや、本当の自分ってこんなんだったのか、

って気もしています。

 

そんな中で、

ずっと積読していた本を読みまして。

その名は

『海からの贈物』

リンドバーグ夫人

という人の著作。

 

私はこの本を、三年前に

だいすきな、尊敬している女友達

からもらったのですが、

なんか、ずっと本棚にしまっていて。

 

それがまたなんか、突然読みたくなったので

読みはじめて、

数日前に読み終わりました。

 

読後の感想。

 

「今だった」。

積読って意味があったんですよー。

 

なんか、今読みたい

って思う時に読んだら

必ずそこには、

今の、自分に必要なことが書かれている。

 

その時を待っていいということ。

いつか、があるってことですね。

 

言葉をたくさんメモした中で

ここにも書き記したい言葉を一つ。

ちょっと長いけど。

 

*****

「二人の人間の間で完全に何でも分け合うということはあり得ない」とリルケは書いている。「そしてそれにも拘らず、そういう共同の生活が営まれていると見える場合は、それは何かが狭められているのであって、二人のうちの一人が、或いは両方の自由と発達を阻む契約が取交されていることなのである。

しかし最も近い二人の人間の間にも無限の距離がやはりあることが理解され、それが受入れられれば、そしてもしこの二人が二人の間にあるこの距離を愛すに至るならば、それは互いに相手の全体を広い空を背景に眺めることを許して、二人だけのまたとない生活が始まることになる」

*****

「たこぶね」より。

 

梅雨明けとたらみ

沖縄が梅雨入りをした時頃から、旅に行ってきた。

沖縄の真上、与論島から沖永良部島、徳之島、奄美大島屋久島。

旅のテーマはサバニと木と生活。

今まとめていて、近々ZINEにしようと思っています。その時は是非みてね。

その旅の中で、印象に残った出来事がいくつもあり、そのうちの一つを紹介します。

 

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こちらは屋久島の山の中。

私が3人いて、手をつないで囲むくらいの大木の切り株から、違う木が根を張り育っている写真です。

大きな木が切られると、その分の空間が空き、光が差し込みます。その光を求めて木々が競争、成長します。

切り株の上に落ちた種は、切り株を養分として育っていきます。

自然に倒れた木には苔が生え、シダが絡み、微生物を始め沢山の生き物が存在しています。

屋久島滞在中は雨が多かったのですが、そのおかげで幻想的な風景を見ることができました。

雨に濡れた苔の美しかった事!

 

星野道夫さんという、私が尊敬している人がいます。

星野道夫さんが書いた文章の中に、「トーテムポールを探して」というものがあります。気になった方は読んでみてください。私は屋久島の森で、この話を思い出しました。気候は全く違うのに、通じるものを感じました。ウィリアムプルーイットさんの、「極北の動物誌」も。

 

テーマの一つ、「木」を選んだ理由は、大工仕事で木を使う中で、木のことをあまりにも知らなさすぎると思ったからです。

木は生きている。ということを声に出してみても、どうしても実感がわかない。わからない。

なにか少しでも見えるものがあればいいと思いました。

屋久島の森で見た木は確かに生きていて、今回の旅の中で大きな発見でした。

木って、おもしろいしかっこいい。いつか、たらこ三姉妹でも屋久島の山に行きたいものやね。

 

以上、旅の報告でした。ちゃんちゃん。

 

追、梅雨明けしてない皆様に、梅雨明けの空をプレゼント

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たら子・苦手なこと

 

がたくさんある。

ドライヤー、早起き、曇り、朝の大病院、交差点で人と人との間をすり抜けること、浅く眠ること、ATMで取り忘れを防止する警告音、ガヤガヤとした大学の食堂、ヘアオイルを塗った後の指、待つこと、並ぶこと、人に心配をかけてしまうようなことをすること......。

 

 人に心配してもらう時、なんともいたたまれないような申し訳ないような気持ちになるのはなぜだろう。「でもね、全然大丈夫なんだよ!」とすぐに撤回したくなってしまうのはなぜなんだろう。

 

 2021年、12月。突如として眠りが浅くなった私は最終的に明け方まで浅くしか眠れない日々が続き相当参っていた。本も読めない。授業を聞いて理論的に思考することもつらい。ついにきたか、と思った。

前々からずっと調子は悪かった。どんな風に?と言われるととても難しい。いうとすれば......いくら休んでもただひたすらに疲れていて全てが重い。それが不眠にまで達したのが2021年の12月だった。

 

病院のセンセーに言われたのはうつ病であるということ。やけに不安が強いタイプだということ。今通っているカウンセリングは今後も続けたほうがいいということ。投薬治療をして調子を見てみよう。ということ。

 

私を知っている人はそんなこと知らなかった。と思うかもしれない。

長らく(といってもこうやって振り返ってみると半年くらいだけど)このことを言葉にできなかった。これを目の前にした時、私の中には一文字の言葉も浮かばなかった。ほとんど、血縁者以外には誰にも言わずにここまできた。

 

治療を始めてよかったこと、体が重くないこと、突然悲しくなったりしないこと、ほとんどの場合よく眠れること、毎日の中に調子が悪い日やつらい日だけではなく調子がいい日も存在すること、一番辛かった時よりも遥かに毎日が楽しく楽なこと。

 

周りの知識ある大人は、これは突然治るものではなくゆっくりじわじわと時間をかけて少しずつ改善していくものだから焦らずね。という。しかし、例に漏れず焦る。早く全ての症状をなくしたくて焦る。なんてったってせっかちだから。

でも「治ること」は「前と同じに戻ること」ではないらしい。

新たな自分を模索する必要があるらしい。

ぐぬぬ

 

 

おまけ

たら子の好きなこと

やらなくちゃいけないことがあるのに寝る時間、美容院を予約する時、洋服、絵を描くこと、揺れるピアス、人とご飯を食べる時、手紙に貼る切手を選ぶ時、変な言い回し、新しい本のにおい、タンスにしまっておいた洋服のにおい、とか。

 

最近のつらつら。

ご無沙汰です。

最近は、目覚めてすぐや、寝る前に

三浦透子さんの声が聴きたくなります。

『私は貴方』https://youtu.be/YzVT2JXGn3Q

おすすめ。

 

地の声も、とっても惹かれる。

低くて、落ち着いていて、嘘がなくて、間があって、ほっとする。

そんな、地声に近い歌が出てきたらいいな。

そして何より人間として、尊敬している人です。

会ってもないのになんでだろう。

 

なんか、無作為ってすごいなと思うんだけど。

それは器でも料理の盛り方でも歌でも。

 

土井善晴さんは

美味しいものを作ろうとすれば、美味しくなくなる

といいます。

それは柳宗悦で有名な「民藝」の中の

美を追いかけると美は逃げていく

というような思想からきていることのようです。

 

でもそれは本当にそうだったんだと、

私自身の中で痛感することがあって。

 

私にとって追いかけてきたものは

「伝える」ということ。

どうしたら、この問題が多くの人に伝わるか

それをずっと追い求めてきた。

でも、

いつからか、とてもしんどくなってきていたのに

気づかなかった。

それでこの間、その全てが破裂した。

 

吐いて吐いて吐いて、

吐ききったら自然と吸えるようになったのは5月13日。

 

私はもう伝えることを追わない。

私は自分のために言葉を発する。

 

 

唐揚げ屋さんとたらみ

たらこの文章をよんで、自分はどんな一年を過ごしたのだろう。と、思い出していた。

一年前、丁度この時期。海の目の前の学校に、仕事で毎日のように通っていた。

学校では冷えた潮風に吹きつけられながら、自分にできることをしていた。

カセットコンロ持ち込んで焼肉したり、海に漂着するゴミを拾ったり、ウミガメをおくったり、焚き火をしたり。

特別なことがない日がたくさんあったり。

そんな中でも小さな喜びや楽しみ、不安定な時を過ごしたのだろうし、失敗もたくさんしたはずでしょう。

毎日変化する海や空を見つめては、ただそこにいただけなのかもしれない。

大きな出来事や移動もなく、気付けば過ぎた。とも言える。

思い返せば一瞬だものね。

でも、ふと、前にみた景色が浮かんだり、見えてなかった粗雑な部分に気付いたりする時に、過ごした時間と得たものは、一瞬で成ったものではないのだとおもえる。

自分にとっての一年と、他の人の一年はもちろん違うんだろう。




もう五年以上の付き合いになる、唐揚げ屋さんがある。


自分は、唐揚げ屋さんのおっちゃんの一年が、ずっと気にかかっている。


おっちゃんとの出会いは特に記憶にないけど、おっちゃんの店は通学路にあったものだから、よくみんなで押しかけては唐揚げを食べていた。

愛想がよかったのは最初だけで、すーぐ「うるせえ!!」「帰れ!!!」「配達してこい!!!」「自分で唐揚げ揚げろ!!」「猫に餌やっとけ!!」とかなんとか、いつも誰よりもでかい声で我々と遊んでくれていた。

下ネタ多いしうるさいおっちゃん。

あんまん持ってったら途端に機嫌良くなるおっちゃん。

そんなおっちゃんが店を閉め出してから、一年ぐらい経つと思う。

最初は時々やったけど、ある日からずっとお店は暗いままで、たまに通るたびに窓ガラスに書かれた文字がかすれ、看板が古くなっていく。

いつも生肉をいれていた猫の餌入れは汚れていき、ライトは埃がつもっている。

おっちゃんはどこにいったのだろう。

揚げたての唐揚げの匂いと、オレンジに光る電気はどこに消えたのだろう。

おっちゃんは、どんな一年を過ごしたんだろう。

おっちゃんがどうして店を閉め出したのか、知っている。

でも、どうしたらいいのかわからない。

自分に何ができるんだろう。

勝手に無力な気がして、「でも、すぐ帰ってくるかもしれないし。明日にでも店は開くかもしれない」と、都合のいい事を考えては店の前を通り過ぎた。

そして一年がたった。

お店は暗いままだ。

一歩踏み込む勇気がなかっただけだと諦めそうになるし、正直にいうと未だに踏ん切りがつかない。

でも、明日はお店に行って勝手に掃除しようと思っている。

一年かかって、やっと、これだけの決意しかできないね。


次の一年はどんな一年になるんだろうか。


1年、2つ目の誕生日のように。

 去年の今頃、こんなに寒かったっけ?とふと考える。あまり記憶がない。でもそんなのはいつものことである。大抵、一年前のことなんてのは朧げにしか記憶になく、ましてや去年の今日なにをしていたかなんてほとんどの場合記憶にない。でも10月21日だけは鮮明だった。私にとって、記憶にこびりついている1日。あの日は、少し寒かった。でもやけに晴れていて、日差しが刺さってくらくらしていた。

 


 「二つ目の誕生日みたいな気持ちです。だからケーキでお祝いしようかと思って。」

毎月、病気の具合を確認する検査とインスリンを処方してもらうために病院に通う。そこでこの1年、通院のたびに毎回面談をしていた管理栄養士の方に笑いながら話した。2つ目の誕生日。この1年、生まれ変わったようだった。今まで自分が健康な身体を持っている人間として、いかに見えないでいた部分があるかを思い知った。初めて物事に触れる赤子のように知らないこと、見当もつかないようなことばかりだった。

 倒れて、体調不良の原因がメンタルの問題でもちょっとした疲れでもなくれっきとした病気だったということがわかった日。それから1年が経つ。1型糖尿病というわかるようでわからないような病気。あれから随分と詳しくなって今では自分が自分の主治医みたいなところがある。まだ1年目でひよっこだけど。

 それでもまだ、なにも解決していない。最近は病気である自分を持て余している。一年前、初めて診断がついた時のように向き合う元気もなくじっと今を生きて、日々体調を落ち着かせることに精一杯で。血糖値の上がり下がりは気持ちにも関係するらしく、感情の上がり下がりについていくのも難しい。少しのことでも苦しくなるくらい悲しくなったり、逆に気持ちが昂ってしまってなかなか眠りにつけない時もある。大抵血糖値と連動している……気がする。「頭が体を動かしている」なんてのはこういう状況になってみると嘘みたいなもんで、頭はあくまでも体の一部でしかなく、身体と頭(思考)は密接に関わっていることを痛いほど感じる。

 解決する/しないの問題ではないことは分かっている。治らないなりに向き合い方があるはずだとも。でもそれを模索する気力が今はない。じっと、静かにうずくまっている。

生きていくのは難しい。

 


 本当は1年経って、散々体調不良でうまいこと行かなかった日々から抜け出して「もっと安定した自分」のことを書けると思っていた。というか、そういう自分を書こうとした。でも今の私にそれは少し難しい。正直にここに書き残しておこうと思う。昔のようにできないことも増えました。でも少しずつ進んでいます。たまに戻ることもあるけれど、立ち止まることも多いけど私なりに、少しずつ。

 

2021.10.21

 

おまけ

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いつも空は不思議だよ。

最近は「作ること」ができない分、読書をしたりしてインプットをする時間だと思って暮らしています。最近面白かった本は「古都の占領」と「あのこは貴族」

 

おひさのたらよ🍁

しかし

一昨日はひどい目に遭った。

朝食後に試食した半生のネズミ茸で

昼過ぎから吐き気、

寝込むと実際にもどした。

トイレに間に合ってよかった。

本当によかった。

アルコールを摂取し過ぎていても

歯を磨いてコンタクトも洗って布団を敷いているこの体。

またしてもトイレまでの10メートルの間

コントロールしてくれたことに深く感謝。

 

で、スッキリするかと思いきや、

そのあと寝ても腹のむかむかはおさまらず、

翌朝になるとフラフラしてきた。

久しぶりに体温計をさすと37.3。

いや、もっとあるでしょ

別の体温計を、同じ左脇にさす。

ピピピ

37.4。

悔しい。

30分後には仕事が始まるのに

貧血みたいなフラフラが治らない。

 

なんとかその後2時間の仕事を終えて、

また布団に戻った。

今日はもう仕事がない。

そう、

毒に当たったおかげで(と言えるくらいには回復していた)

ここからは天国だった。

何を読もう。

なんだかんだ私は寝込んだ時に一番本を読む。

誰にも邪魔されず

三度の食事のことを気にせず

一日中でも布団の中にいて良い自由。

カーテンを少し開けて木漏れ日で頁をめくる。

 

スティル・ライフ』を数日前に読んでから、

海外の名作に触れたい欲求が出てきた。

『異邦人』、

ちょっと休憩で

『未来のだるまちゃんへ』、

それから

『変身』。

そのあと日付が変わる前に

日本の作家の短編小説を読んだのだが

今までは感じたことのなかった生ぬるさを感じた。

なんだろう。

 

スティル・ライフ』(は邦人作家だが)も『異邦人』も『変身』も

正直言ってよくわからない話だった。

よくわからないのはメッセージ性だ。

読み終わったあとにポツンと一人になる。

なんだったんだこれは。

何が伝えたかったのだろう。

何を表現しているんだろう。

これが名作というものなのか。

自分が思い描いていた「名作の感動!」

がなく、些か不満が残る。

 

けれど、日付が変わる前に読んだような

自分好みだったタイプの小説を読むと

視点は大きく変わってしまっていることに気がついた。

 

わかりきらないから面白いのか。

『異邦人』の彼はなぜ一発撃ったあと、少し置いて四発を放ったのか。

裁判の傍聴席にいた新聞記者は誰だったのか。

『変身』で描かれる虫とは何のことなのか。

 

積読がいよいよ溜まって本棚の定員は埋まりそうなのに

また別の小説を探そうとしている。